はてなで迷子ツイートなう。

ちょっとコアな自分を書き出して、見つめてみようかな、と思います。

1本の管

人間は脳ミソで生きてるように見えて、実は腸で生きてます。

人間の本性は、脳ではなく、口から肛門までの、1本の管です。

管が生きるために栄養を摂る、そのための脳ミソであり、心臓であり、手足です。

馬(筋肉)と馬車(骨)が身体で、手綱を持つ従者が脳ミソで、馬車の中の主は腸でありDNAです。

脳は、社会的に食糧を得たり、身体のメンテナンスをするための計算器であり、データバンクです。

日々、あーだこーだ考える意識は、副産物として生まれたに過ぎないのでしょう。

だから、悩みすぎて生きるのが嫌だー、となるのは、平社員が大企業の行く末を悲観して爆弾しかけたろかー、ってくらい、イタイ勘違いだと思います。

忘れてはなりません。脳ミソは平社員です。

脳ミソが苦痛にさいなまれているなら、それは生きる上でなにかをモーレツに間違えているからだ、と、私は思います。

平社員の脳ミソの都合に振り回されているからだ、と思います。

社長の腸は、すべてを信じ、命を預け、舵取りを脳ミソに任せています。

その責任を、脳ミソは忘れてはなりません。

一番偉そうに見えても、脳ミソは現場の平社員(まぁせいぜい係長)なのですから。

心の傷

例えば、出張先で、どこか近くにビジネスホテルみたいなとこないでしょうか、と聞いた時、

まぁ普通に教えてくれるので、お礼を言って背を向けたとたん、

「そのくらい調べてから来いよな」と小声で言われたり。

いや、聞こえてますから。

ってか、聞こえるように言ったんけ?

「○○さんよ。どうもすいませんでした」と言うと

茨城弁のその、○○さんよ、というイントネーションが怖いんだけど、とか言い出すし。はぁ?ってなる。ネチネチなに言ってんだ。喧嘩売ってんのか。やんのかコラ。みたいな。

こういう人種は全国にいる。

でも私の周りの人々の経験上では、京都、大阪に多い。もちろん、全員ではない。

たぶん、もともとそういう文化で、地元民は気にしないのだろうし、遠くから来た人ほど敏感に察知するものなんだろう。

茨城にもブラックユーモア的な文化はある。

ひどいことを言えば言うほど、仲間意識は強い。

でも、嫌な思いをして心が折れて、京都、大阪に帰ってしまった人々もたくさんいる。

こういうのはどうすればいいのかな。どうすればみんな仲良く平和に暮らせるんだろう。

みんな、ひとりひとり、誰もが、幸せになる権利がある。

DNA的には、生き物は自分と異質なものほど魅力的に感じるようにできている。

でも心は「もう傷付きたくない」と思う。

どっちについていったらいいのか分からなくなった肉体は、あちこち不具合が起きて次第に動かなくなっていく。

心の傷は見えない。だから、もうダメだと思ったらそうなる。

まだイケる、と思えばそうなる。

目に見えなくても存在するものはある、という言葉があるが、

目に見えても見えなくても、「存在するもの」など何もないのだ。

見えないものを信じてすがりつこうとするから、実はなくてよけい失望したりするのだ。

何もない。だから自由に飛んでいいのだ。