心の傷
例えば、出張先で、どこか近くにビジネスホテルみたいなとこないでしょうか、と聞いた時、
まぁ普通に教えてくれるので、お礼を言って背を向けたとたん、
「そのくらい調べてから来いよな」と小声で言われたり。
いや、聞こえてますから。
ってか、聞こえるように言ったんけ?
「○○さんよ。どうもすいませんでした」と言うと
茨城弁のその、○○さんよ、というイントネーションが怖いんだけど、とか言い出すし。はぁ?ってなる。ネチネチなに言ってんだ。喧嘩売ってんのか。やんのかコラ。みたいな。
こういう人種は全国にいる。
でも私の周りの人々の経験上では、京都、大阪に多い。もちろん、全員ではない。
たぶん、もともとそういう文化で、地元民は気にしないのだろうし、遠くから来た人ほど敏感に察知するものなんだろう。
茨城にもブラックユーモア的な文化はある。
ひどいことを言えば言うほど、仲間意識は強い。
でも、嫌な思いをして心が折れて、京都、大阪に帰ってしまった人々もたくさんいる。
こういうのはどうすればいいのかな。どうすればみんな仲良く平和に暮らせるんだろう。
みんな、ひとりひとり、誰もが、幸せになる権利がある。
DNA的には、生き物は自分と異質なものほど魅力的に感じるようにできている。
でも心は「もう傷付きたくない」と思う。
どっちについていったらいいのか分からなくなった肉体は、あちこち不具合が起きて次第に動かなくなっていく。
心の傷は見えない。だから、もうダメだと思ったらそうなる。
まだイケる、と思えばそうなる。
目に見えなくても存在するものはある、という言葉があるが、
目に見えても見えなくても、「存在するもの」など何もないのだ。
見えないものを信じてすがりつこうとするから、実はなくてよけい失望したりするのだ。
何もない。だから自由に飛んでいいのだ。